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人が人を裁く「裁判員制度」微妙な表現の違いが心証を左右しかねない・・・ 大弦小弦 八葉蓮華 [大弦小弦]

 「くるせー くるせー」と騒いでいたとの証言を法廷通訳が「kill them」と直訳してしまった

 復帰前に陪審員を務めた経験をもとに伊佐千尋さんが書いたノンフィクション『逆転』の一場面だ。「“くるせ”は喧嘩の常套語で、子供たちでも日常よく使うくらいである」と説明し、被告になった沖縄青年の殺意を否定する

 司法担当記者によると、今も法廷で似たやりとりを聞くという。「くるさりんどー」発言をめぐり、弁護士が被告に「ぶっ殺すというほど強くはない、こらしめるくらいの意味ですね」と確認する

 本土出身の裁判官にウチナーグチの微妙なニュアンスを伝えなければならないのだ。やがて始まる裁判員制度で、そんな場面が増えるかもしれない。例えば転勤族が裁判員になり、宮古言葉しか話せないお年寄りが陳述すると…

 すれ違いざま「ばか者」たちが道を譲らないので注意する「べき」と思った―のが事件の発端だったとしても、意味するところ「若者」らに注意でも「した方がいいかな」ていどの軽い意思である

 こんな場合は法廷通訳が必要となろう。共通語による陳述でも、微妙な表現の違いが一般市民である裁判員の心証を左右しかねない。小さな事実関係の有無しかり。人が人を裁くことがどれほど大変なことなのかが分かる。(山城興朝)

大弦小弦 沖縄タイムス 2009年4月18日 
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